クマノザクラ
病院長 中紀文
日増しに大きくなる鳥のさえずりが春の訪れを予感させます。豊かな自然の中に神々が宿ると伝わるこの地に、また美しい季節がめぐってきました。
那智勝浦町立温泉病院は地域住民に適正な医療を提供する目的で1964年に開設されました。50年を経過した旧病院が修復困難な老朽化に陥りさらに海岸近くに立地していたため、2018年小高い丘の上に新築移転し、内科・リハビリテーション科・整形外科の3科を中心とした120床の小規模公立病院として再出発しました。地震や津波に備え、高齢化と人口減少が加速する紀南地方の地域医療を維持すべく、病院職員と力をあわせ日々の診療に当たっております。
今は廃院となった旧病院は私が中学生のころ通学路の途中にありました。通学路の小径はさくらが植えられ、地元の住民は「さくら道」と呼んでいました。さくらは旧病院の敷地内にも数多く植えられており、春には帰宅途中にたびたび立ち寄ったものでした。古参の職員の話では満開の美しいさくらは患者の心を癒し、病院職員の自慢であったと聞いています。しかしながら残念なことに、新病院の敷地内にはさくらの木々までは移転されませんでした。美しい春の風景を懐かしく思っていた2年前、診療を通じてクマノザクラの保全作業に取り組む年配の桜守(さくらもり)と知り合いになりました。
旧病院
みなさまはクマノザクラという桜をご存知でしょうか? クマノザクラは那智勝浦町内で標本採取され、新病院が開設された同じ2018年、日本国内の野生の桜としては103年ぶりに”野生の新品種”と報告されたわが国固有のさくらです。ソメイヨシノなど一般的に慣れ親しまれている多くの桜の品種が人工的に生み出されたものであるのに対し、野生の桜は日本全国で約10種しかなく希少性が極めて高いさくらとされています。クマノザクラは若木の頃からピンク色の鮮やかな花弁をもつ美しい花を咲かせます。早咲きが特徴で、ソメイヨシノが3月後半から4月初め頃に咲くのに対し、クマノザクラは3月10日頃から開花を始め、15日〜25日頃に見頃を迎えます。熊野川流域を中心とした紀伊半島南部の急峻な山肌や比較的やせた土地に自生していますが、他の桜と交配しやすく、クマノザクラとしての固有性を存続していくために人の手による保全対策が求められています。
さくらをこよなく愛する桜守とのお付き合いの中でクマノザクラのことを知り、地元住民のひとりとして保護活動のお役に立てないかと思案してまいりました。病院内で話し合いを重ね、病院敷地内の緑地エリアの一角をクマノザクラの植栽用に提供することに賛同を得ることができました。近々有志を募り、丹精こめて桜守が育てた苗木を まずは5本植えようと思います。ここ熊野は「再生、よみがえり」の地であります。数年後には小さな花を咲かせ、数十年後にはたくさんのクマノザクラが病院のシンボルツリーとして咲き誇る光景を夢見ています。
2024年 2月